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≪ Chapter of Ueno lineup ≫
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いよいよ話の本題と言うべき上野公園に入る。
このようなHPを作り始めるまでは、特に歴史的な場所として意識することもなく動物園と博物館の印象しかなかったのだが、
江戸時代には、東叡山寛永寺と言う大規模な天台宗寺院の境内だった。
この上野寛永寺は、芝増上寺と並ぶ「徳川将軍家の菩提寺」であり、 当時最高のステータスを誇っていた存在だ。
“東叡山"の山号は、比叡山に対抗するもので、境内の各所に京都を意識したネーミングが残る。
その創建は、おそらく徳川家光の鶴の一声で決定し、建設予定地に敷地があった津軽藩の藤堂高虎など、
3家の大名下屋敷を潰すところから始まる。
家光の命を受けて、建設の責任者及び初代のトップに君臨したのは、あの黒衣の宰相天海僧正である。
ただ、伽藍は、一気に竣工されたわけではなく、最終的に本堂が完成したのは、徳川綱吉の代であるという。
寛永寺の造営が計画された時代には、「徳川将軍家の菩提寺」として既に増上寺という存在があった。
それをあえてバッティングする存在の計画を強行したところは家光の自己顕示欲的なのだろうか。
家光は、父である秀忠に対抗してか、過剰と思えるほどに祖父家康を神格化・崇拝するなど、自らのアイデンティティの確立に強い執着心を持っていたような印象がある。
ゆえに、寛永寺造営は自らの権威を世に知らしめるための事業であったのではないかと思われるのだ。
更には、「家康の神号問題」から続く天海の政治的な思惑と野心が多大な影響を及ぼしたことは疑いようがない。
時が流れて、幕末戊辰戦争において寛永寺しての実質的な歴史は幕を閉じる。
彰義隊が籠城したことで、新政府軍との戦闘に巻き込まれ、ほぼ壊滅してしまったからだ。
その後は、完全消滅の危機もありながら、公園として残り現在に至っている。
↓は「上野公園」の遠景。手前が「不忍池」で後ろの樹木が上野の山だ。



不忍池


不忍池は天然の池で、どうも大昔から存在していたらしい。
天海により京都・比叡山の向こうを張る形で企画された寛永寺造営プロジェクトであるが、
その構想において不忍池に振られた役は“琵琶湖"だという。
シンボル的存在の「弁天堂」は、“琵琶湖"に浮かぶ「竹生島弁才天」がモデルであると思われる。
江戸庶民にとって、この一帯は現在と同様に憩いの場となっていたらしい。
明治の後期には、今のように池が横断可能になり、定番の貸しボートが現れたのは昭和初期であるという。
その後は、野球場化計画での消滅危機を乗り越えたりして現在に至るといったところか。

不忍池

(左)弁天堂。空襲で消失し昭和39年に再建されたものらしい。
(右)大黒天堂。

弁天堂 大黒天堂

(左)弁天堂の参道。イベントシーズンには屋台が軒を連ねる。
(中)“幕末の剣豪櫛渕虚冲軒"と読める。神道一心流の櫛淵宣根のことか?幕末のとあるから養子の宣猶の方か?
(右)不忍池の碑。

弁天堂の参道 不忍池 不忍池の碑

(左)蓮見茶屋。
(右)水上音楽堂(野外ステージ)。

蓮見茶屋 水上音楽堂

不忍池 不忍池

下町風俗資料館


池の奧に見えるのは下町風俗資料館で大正時代あたりの街角風景を再現しているらしい。
下町風俗資料館の公式HP

下町風俗資料館 下町風俗資料館 下町風俗資料館

下町風俗資料館 下町風俗資料館 下町風俗資料館

不忍池 不忍池


弁天堂の参道から階段を上がると旧寛永寺の参道であったであろう上野公園のメインストリートに出る。
階段上の赤い建物は「清水観音堂」だ。
階段上から見下ろすと蓮池と露店が並ぶ弁天堂の参道が見える。



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