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≪Chapter of Sumida river ≫
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日の出桟橋を出航すると、後はノンストップで吾妻橋まで隅田川を遡上する。
(左)築地市場。
この辺りは、尾張徳川家の蔵屋敷・桑名藩松平家の下屋敷・淀藩稲葉家の中屋敷・広島藩浅野家の蔵屋敷などであったらしい。
また、築地場外市場は、幕末に講武所や軍艦操練所があった場所だ。
(右)勝鬨橋が近づいてくる。写真の「リバータウン号」は船上に出られるタイプの船だ。

築地 勝鬨橋

隅田川で、最初に現われるのは勝鬨橋だ。築地と月島を繋ぐ橋で、晴海通りが通っている。
“勝鬨”という名称のルーツは日露戦争の旅順陥落にあるという。
昭和15年製、246mの橋で、二葉跳開橋(要は跳ね橋)として有名な国の重要文化財だ。
とは言え、昭和45年以来、動くことはなくなったようで、復活させる運動もあるらしいが、経済的に実現は難しいかも知れない。
この勝鬨や月島流域は、今でこそ川であるが、江戸時代にはまだ埋め立てられておらず完全に海だった。
(左)臨港消防署と消防艇「みやこどり」。現在は晴海に移転しているらしい。
(右)勝鬨橋をくぐる。

臨港消防署 勝鬨橋

(左)勝鬨橋は、運転室構造とアーチが特徴的な橋だ。
(右)直線的な緑の橋は佃大橋、その後ろ三角に見えるのが中央大橋だ。
佃大橋は、昭和39年の竣工で、長さは476m、左岸が湊と明石町で右岸が佃・月島らしい。
江戸時代にも佃島はあったが、当時はやや上流に佃島と鉄砲洲を結ぶ佃の渡しがあった。

勝鬨橋 佃大橋

中央大橋も江戸にはなかった橋だ。現在の橋は、平成5年開通 長さ210.7m、新川と佃の間に架かっていて八重洲通りが通っている。
デザインはフランスの企業が設計したもので、兜のイメージなんだとか(そう言われれば見えなくもない)。
なんでも、隅田川はフランスのセーヌ川と友好河川(友好都市みたいなものか?)になってるいるのだとか。
(左)佃大橋をくぐる。岸には「天安」「田中屋」といった老舗佃煮屋の看板が見える。
(右)中央大橋。江戸の地図には記載がなく、明治には石川島の渡しがあったらしい。

佃大橋 中央大橋

新大橋を過ぎると次は永代橋、振り返ると佃島を境に川が分岐している。
(左)右手は中央大橋が架かる隅田川、左手は越中島で晴海運河や豊洲運河へと分かれていく。
(右)永代橋は、永代、佐賀を結ぶ橋で永代通りが通っている。深川と霊岸島を結んでいる感じか。
現在の橋は、大正15年製、長さ184mの重要文化財で、ドイツ ライン川に架かっていたルーデンドルフ鉄道橋がモデルであるという。
この永代橋は歴史のある橋で、初代の木橋は元禄の世に完成し、今よりやや上流に架けられていたらしい。
文化年間には、富岡八幡宮の祭りに詰め掛けた群衆の重みで橋が崩れるという事件が発生し多数の死者が出たという。

佃島 永代橋

(左)隅田川大橋は、日本橋箱崎と佐賀の間に架かる橋で、昭和54年開通。長さ385m(河川部 210m)。江戸、明治時代にはなかった橋だ。
首都高深川線の高架橋と一体化されているらしく、箱崎ジャンクションと福住インターを繋いでいる。
(右)清洲橋は、日本橋中州と清澄を結ぶ橋で清洲橋通りが通っている。昭和3年開通、長さ186mの重要文化財だ。
ドイツのケルン市にあった大吊り橋をモデルにしているという。
セットで計画されたという永代橋が、ひと瘤ラクダ、清洲橋はふた瘤ラクダ的な外観に見える。
これも江戸、明治には、なかった橋であるが、日本橋中洲は文字通り隅田川の中洲だったようだ。

隅田川大橋 清洲橋

(左)小名木川との合流地点に萬年橋が架かっている。昭和5年製で、長さ56m、緑のアーチ型で清澄と常磐を繋いでいる。
万年橋は、歴史のある橋で、北斎の富嶽三十六景や広重の名所江戸百景の題材にもなっている。
当時は、小名木川の現在よりは、やや隅田川よりに木製の太鼓橋が架かっていたらしい。
(右)隅田川に目を戻し、次に見えるのはオレンジと二等辺三角形が特徴的な新大橋だ。
現在の橋は、昭和52年製で150m、日本橋浜町と新大橋を結び、新大橋通りが通っている。
江戸時代には、今より下流にあり、両国橋が当初、大橋と呼ばれていたことから、新大橋になったのだという。
また、広重の名所江戸百景に“大はしあたけの夕立”というタイトルで描かれ、ゴッホが模写したことでも有名な橋だ。
永代橋から新大橋までは、深川の橋というイメージがある。

万年橋 新大橋

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