今回は、四谷から新宿にかけての歴史スポットを歩く。
メインストリートは「旧甲州街道」にあたる「新宿通り」だ。
ここは
品川宿
・千住宿
・板橋宿
と共に江戸四宿と呼ばれた内藤新宿のあったところだ。
内藤新宿は甲州街道で日本橋から最初の宿場なのだが、当初は高井戸宿が一番目だったらしい。
その高井戸宿が、なぜか他の三宿と比べて倍くらい遠かったらしく、中間に位置する内藤新宿の出番となったようだ。
それだけに、交通量が多く町も繁栄し、必要性は高かったはずなのだが・・・
しかし、様々な思惑から、わずか20年たらずで廃止となり、再開には50年以上を費やしたのだという。
≪ Chapter of YotuyaSinjyuku lineup≫
四谷駅→
西念寺→勝興寺→
西応寺→戒行寺→
宗福寺→須賀神社→
愛染院→東福院→
新宿歴史博物館→
祥山寺→本性寺→
陽雲寺→田宮稲荷神社→
長善寺→多武峯内藤神社→
新宿御苑→太宗寺→
正受院→成覚寺→
花園神社→
新宿駅
四ツ谷駅だ。駅名になると、なんで“ツ"が入るのかは知らない。
メトロ丸ノ内線が、JRより高架を走っている変な区間だ。
現在の感覚とは違い、四谷は、都市部ではなく江戸郊外であったらしい。
それが、江戸城外堀の拡張工事により麹町から寺院が多く移転して来ることで門前町が発展したのだと言う。
さらに、明暦の大火では、江戸中心部からの人口流入が進み、やがて江戸の範疇へと組み込まれていくこととなるのだとか。
また、「四谷新宿」の呼び名が示すように内藤新宿の入り口(四谷四丁目付近)でもある。
(左)四谷見附橋で、(右)四谷見附の交差点
このあたりに江戸城外堀の城門があったのだろう。
左右は外堀通り、直進が新宿通りだが、内藤新宿のエリアはまだ先だ。
とりあえず、新宿通りをへと歩を進める。
新宿通りをすぐ左に入り、まずは若葉、須賀町と言ったあたりを目指す。
麹町から引越ししてきた寺院で形成されたと言う寺町がこのあたりだ。
ただ、それ以上、個々の寺院の由来とか歴史とかについては、案内板などでは今一つ分からない所が多い。
「観音坂」の標柱が立つ坂道に来た。
左に蓮乗院、右に真成院という寺があり、
「観音坂」の名前の由来は、真成院の観音像にちなんだものだとある。
そのどっちにも行かず、降りた坂も、やっぱりまた上って・・・
持っていった地図が大雑把だったので、やや右往左往しながらも(よくあること)予定通り服部半蔵の西念寺についた。
今どき当たり前の話だが、映像の世界で超絶アクションを披露している半蔵も、
実際は飛んだり跳ねたりしないし怪しい術も用いない。
伊賀者の頭領ではあっても、実態は、徳川十六神将にもラインナップされるような武将だ。
得意の獲物も手裏剣ではなく槍だ。
その槍がこの寺に保存されているんだとか。
この西念寺は、家康の内命により半蔵が岡崎信康の菩提を弔うために建立したもの(当初は麹町にあった)だという。
ただ、完成は間に合わずに半蔵の没後になったらしい。
境内には服部半蔵と岡崎信康の宝篋印塔がある。
信康の切腹に際し、介錯を命じられた半蔵だったが、以外に優しい男だったのか・・・やはり臆したのか・・・
ついに刀を振るう事が出来なかったと言うエピソードが残っている。
ちなみに、この信康の供養塔としては、古河編の隆岩寺にも小笠原秀政が建てたものがあった。
(左)服部半蔵の墓。「安誉西念大禅定門」とあり、寺号の“西念"と言う文字が見える。
(右)岡崎信康の供養塔。「清瀧寺殿」と見えるが、浜松の「清滝寺」にも墓所があるらしいのでその関係か?
どうやら坂の多い町らしい。
(左)鉄砲坂。付近に「御持筒組屋敷」が建っていて鉄砲の稽古場があったんだとか。
(右)暗闇坂。坂の左右にある「松巌寺」と「永心寺」の樹木のせいで薄暗かったんだとか。
明らかに、ちょっと回り道になっているが、この暗闇坂を上って須賀町へと入っていく。
ここ勝興寺には“首切り朝右衛門"の墓があるらしい。
山田浅右衛門は、刀の試し切りを役目とする「公儀御様御用」を努めた歴代当主の名乗りだ。
“首切り"と言うのは、処刑執行人の仕事もしていたからだ。
また、その際に死体の内蔵などから薬を製造して結構繁盛していたらしい。
特に案内板の類もなく、どんな所なのかよく分からないが、とにかく入ってみる。
墓所の入り口に、その山田朝右衛門
の墓はあった。
墓石には、6代目「吉昌」と
7代目「吉利(吉年)」の名前が見える。
特に7代目「吉利」は、吉田松陰、
橋本左内、頼三樹三郎など
安政の大獄で捕らえられた大物志士を斬首していることで有名らしい。
また、刀剣の鑑定も得意とし、
「公儀腰物拝見役」と言う
(代々本阿弥家の家業)役目も
拝命していたんだとか。
墓所には、「横須賀藩西尾家」の墓所もある。こっち方がはるかに目立つのだが。
ここには四代目以降の妻子がいるらしい。
道の対面にある西応寺に来た。
ここも、案内板では、寺の由来などについては良く分からない。
案内板によると、直心影流榊原鍵吉の墓がある。
幕末に講武所の剣術教授方も努めた、いわゆるメジャーな剣豪の一人だ。
特に、明治維新後に、上田馬之助との勝負に勝ち、天皇の御前でも
披露されたと言われる、「兜割」についてのエピソードが有名だ。
ちなみに、展覧の際に、鍵吉が振るったのは「同田貫」で、
ターゲットにされたのは「明珍」作の兜だと言う。
キャッチフレーズは「最後の剣客」だ。