≪ Chapter of koukyo lineup ≫
<<皇居外苑>>→
二重橋→桜田門→
楠木正成像→
<<日比谷公園>>→
和田倉噴水公園→
坂下門→
<<皇居東御苑>>→
大手門→
番所→展望台→
富士見櫓→松の廊下跡→
本丸・天守台→平川門→
二の丸庭園→北桔橋門→
平川門→和気清麻呂像→
平将門の首塚→
<<北の丸公園>>→
吉田茂像→清水門→
千鳥ヶ淵→弥生慰霊堂→
田安門→
千鳥ヶ淵→
半蔵門→
<<靖国神社>>→
大村益次郎像→社殿→
遊就館→神池庭園
二の丸御殿が建っていたと言う、二の丸の跡地には、
小堀遠州にゆかりの回遊式日本庭園がある。
現在のものは、九代家重の時代の絵図面をもとに
昭和43年に復元されたものらしいのだが、元々は、
小堀遠州の作庭であったとされているようだ。
左は、諏訪の茶屋。
この建物は、明治45年に吹上御苑に建てられたもので、
移築されたてきたらしい。
二の丸へと降りていく梅林坂を上がってきた所。
文字通り梅林があったからみたいで、ルーツは太田道灌まで遡るらしい。
天守台の後ろまで戻ってきた。ここに北の丸公園方面に抜ける開放ゲート北桔橋門がある。
読みは“きたはねばし”で、名前の通り元々は跳ね橋だったらしい。
(左)北桔橋門を出たところ。左は平川濠で右は乾濠。
(右)乾濠側の石垣。
(左)平川濠。
(右)内堀通り沿いに手前から国立公文書館、東京国立近代美術館、毎日新聞社が見える。
(左)乾通り方向の内堀通り。
(右)乾門。西の丸裏門を明治宮殿造営に際し、現在の位置に移したとある。宮内庁・皇室関連の通用門らしい。
(中)北白川宮像。
この人物を知らなかったが、かなり波乱の人生を送っているようだ。
幕末には輪王寺宮(比叡山・上野寛永寺・日光輪王寺のトップ)という立場から幕府軍に付き彰義隊や奥羽列藩同盟に担がれている。
その折りには東武皇帝即位説もでるなど、維新後は一層微妙な状況に置かれたと思われるのだが、
日清戦争や台湾征討軍では英雄視された人物でもあるらしい。
(右)東京国立近代美術館工芸館。
建物は、明治に旧近衛師団司令部庁舎として建てられたもので、国の重要文化財になっている。
住所は“一橋に”入っている。
(左)竹橋御門跡の表示がある。西南戦争後に発生した近衛砲兵部隊による竹橋騒動の現場でもある。
バックに微妙に見えるのが、毎日新聞本社で、御春屋跡になるらしい。江戸城中御用の米や餅をつくところだとか。
(中)その竹橋を渡る。
(右)平川門付近にある太田道灌追慕碑。江戸城虎ノ門の枡形の石だった書いてある。
平川門に架かる平川橋。バックに見えるビル群の、かなりの部分が、一橋家の敷地に含まれていたと思われる。
平川門から大手門の間にある和気清麻呂像。
宇佐八幡宮の神託事件で道鏡の即位を阻み歴史に名を残すことになる。
バックに見える丸紅本社ビルからずっと右手の気象庁や
東京消防庁あたりまでは一橋家の屋敷だったらしい。
夕暮れの大手濠と大手門。
北桔橋門から東御苑の外周を半周回ってきた感じになる。
ここからは、大手町のビル街に少しだけ入り、
平将門の首塚なるものに向かう。
大手門の近くにある平将門の首塚。神田明神の管轄だという。
飛んでった首の落っこちた場所で最もメジャーなのが、ここ大手町のものらしい。
現在は、石灯籠と石碑が残っている。
また、酒井家上屋敷跡との表示もある。
ここは、大老酒井忠清時代に発生した、伊達騒動の凄惨な決着の場でもある。
喧嘩の張本人たちである、原田甲斐・伊達安芸ともに壮絶な斬り合いの末に斬殺されている。