言うまでもなく江戸城とは現在の皇居のこと。
太田道灌の居城に始まり、徳川家康によって日本の中心地とされた。
その後は、全国の大名を動員した天下普請により江戸幕府の政庁として
の規模拡張が進められた。
現在は、城郭の主要部分である本丸や二の丸、三の丸が東御苑に、
将軍の居住していた西の丸は宮殿と宮内庁のあるエリアに、
吹上庭園は吹上御苑となり、吹上御所には天皇御一家が住まわれている。
さらに、二重橋や桜田門のある西の丸下が皇居外苑に、
北の丸は、文字通り北の丸公園となっている。
今回は一般に皇居を指すと思われる皇居東御苑とその周辺スポットを巡る。
皇居外苑、日比谷公園、北の丸公園、千鳥ヶ淵、靖国神社に足を向ける。
≪ Chapter of koukyo lineup ≫
<<皇居外苑>>→
二重橋→桜田門→
楠木正成像→
<<日比谷公園>>→
和田倉噴水公園→
坂下門→
<<皇居東御苑>>→
大手門→
番所→展望台→
富士見櫓→松の廊下跡→
本丸・天守台→平川門→
二の丸庭園→北桔橋門→
平川門→和気清麻呂像→
平将門の首塚→
<<北の丸公園>>→
吉田茂像→清水門→
千鳥ヶ淵→弥生慰霊堂→
田安門→
千鳥ヶ淵→
半蔵門→
<<靖国神社>>→
大村益次郎像→社殿→
遊就館→神池庭園
通常皇居外苑と呼ばれるのは、東御苑や宮内庁、霞が関、日比谷公園などに隣接する
松並木のある広場だ。
江戸時代には、西御丸下と呼ばれ、重臣たちの屋敷地で
あったのだという。
いろんな名前の濠に囲まれたエリアで、
二重橋濠、蛤濠、桔梗濠、和田倉濠、馬場先濠、日比谷濠、凱旋濠、桜田濠が周囲をめぐっている。
また、厳密には北の丸公園と皇居を囲む濠周りも外苑の
テリトリーに含まれているらしい。
地下鉄二重橋前駅で降りると、馬場先門辺りに出る。直進すると二重橋がある。
(左)振り返ると、左に明治生命・右に東京商工会議所・東京會舘のビルが見える。
ちなみに、明治生命ビルは、定火消屋敷の跡地で、安藤広重生誕の地でもあるんだとか。
(右)そのまま、左を向いて日比谷濠の画。茶色いビルの岸本ビルは、朱子学の権威林大学頭の屋敷跡地らしい。
外苑のメインスポットと目されるのがここだ。一般参賀の時とかでないと入れない所なので外観だけだが。
正面は石橋、重なって見えないが奥に鉄橋がある
右に見えるのは「伏見櫓」で、京都伏見城の櫓を移築したという説もある。
お約束の撮影ポイントであり、外国人やツアー客と思われる人々が記念撮影する姿を見かける。
(左)石橋と西の丸大手門。
(右)こちらが二重橋の名前の由来となっているらしい鉄橋。昔は、木の橋で橋桁が2重になっていたんだとか。
大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変で
世に知られるあの門だ。
名前の由来は桜がいっぱいあったから桜田門という、
そのまんまのネーミングだったらしい。
2つの門が連なる構造で、外側の高麗門を入ると
枡形という空間があり、そこで右折して内側の渡櫓門を
くぐると外苑へと入っていく。
概ね、皇居の門はこのような枡形形態を採っているもの
と思われる。
(左)高麗門。正面の門を入り、さらに右手の渡櫓門を抜けていく。
(右)外苑に入り、桜田濠越しに見た渡櫓門。
桜田門を出たところは、霞が関のお役所が立ち並ぶあたりだ。
(左)外桜田門の表示。当然、内桜田門もあって、桔梗門の事を指すらしい。
(下左)法務省(米沢藩上杉家の上屋敷跡地)・検察庁・高等裁判所など。
(下右)桜田門と言えば警視庁。松平市正屋敷跡だとか。
この辺りが桜田門外の変の発生現場となるらしい。
(左)右手にちょっと歩くと国会議事堂が見えてくる。一帯は武家町だったらしい。
(右)「井伊掃部頭邸」跡地には、名水櫻の井なるものがある。広重も描いた江戸の名所であったという。
ここは、元々加藤清正の熊本藩上屋敷の跡地で、井戸は清正が掘ったものと伝わるらしい。
加藤家が次代で改易されると彦根藩井伊家が上屋敷を置いていた。
外苑から、なんとなく見た丸の内ビル群。
日比谷濠の内側コーナー付近に、騎乗の楠木正成像が建っている。
明治期の住友家が、高村光雲に発注して献納したものだとか。
正成像を高村光雲が馬を後藤貞行が担当していて、上野の西郷さんと同じ製作メンバーのようだ。
この辺りは、安政の大獄当時に越前鯖江藩主で井伊直弼の元で老中を務めた間部詮勝の屋敷があった場所らしい。