今回のエリアは、主に東京ドームの周辺、住所では文京区の「小石川」「後楽」「春日」あたりになる。
「小石川」は、主に徳川家の菩提寺伝通院の寺領が広がっていたとされる地域だ。
その地名については、川に小石や砂が多かったからというストレートな由来がある。
「後楽」は、小石川後楽園が名前の由来で、これまたそのまんま。
「春日」は、あの春日局が拝領した土地とされる。
江戸時代の街並みは、水戸藩上屋敷(小石川後楽園)などの武家屋敷と、
伝通院を中心とした寺社町で構成されていたものと思われる。
Chapter of Koisikawa Lineup
源覚寺→善光寺→慈眼院→
伝通院→福聚院→
常泉院→北野神社→小石川後楽園→
礫川公園→麟祥院
都営三田線、春日駅の付近だ。都合上、本郷から歩いて来たので、このあたりからスタート。
白山通りの対岸に、「こんにゃくえんま」の文字が見える。とりあえず、最初はそこに行ってみる。
源覚寺の創建は、江戸時代、三代将軍徳川家光の治世とある。
この「こんにゃくえんま」なんて、ふにゃっとした名前の由来は、閻魔王が己の右目を与えて、婆さんの眼病を治し、
信心深い、婆さんは好物の蒟蒻を供えるようになった・・・閻魔大王ってそんなキャラだったか?
とにかく、そんな話で、"こんにゃく"からは想像出来なかったが、ご利益は、眼病治癒だそうだ。
(左)短い参道。
(右)閻魔堂。安置されている木製閻魔像は、推定鎌倉時代の作らしい。
(左)その「えんまさま」の影。右目が黄色く濁っているとあるが、そこまでは見てなかった。
(中)狛犬。
(右)閻魔大王の絵馬。
(左)塩地蔵。ご利益は歯痛緩和らしい。塩を盛ってお参りするんだとか。
(中)七福神の毘沙門天。
(右)汎太平洋の鐘。元禄期のもので、サイパンからアメリカ本土に渡り、この寺に寄進されたものだとか。
このあたりに来ると、徳川家ゆかりの寺として、隆盛を極めた「伝通院」の元縄張りに入ってきている。
ただ、この「善光寺」あるいは、その前の「善光寺坂」は、共に明治に入ってからのネーミングらしい。
創建は、関ヶ原の2年後、1602年。家康が征夷大将軍となって江戸幕府が開かれる直前だ。
当時は「伝通院」の塔頭寺院で「縁受院」と号していたんだとか。
とりあえず、赤い山門が2つ並んでいる。
境内は、広いものではなく、特に見るものもなさそう。
(左)本堂。
(中)もう一つの門。
(右)外壁のデザインは、氏子の屋号であろうか。
善光寺坂を上がっていくと、放置されたような狛犬と祠があったが、なんだか良く分からない。
「澤蔵司稲荷 慈眼院」と社号碑が立つ、この「慈眼院」も「伝通院」の子院の一つであったようだ。
そして、「澤蔵司稲荷」というのは、その「慈眼院」を別当寺院として境内にを祀られたものらしい。
創建は「徳川秀忠」治世の元和6年となっていて、その由来は良くある夢のお告げ系だ。
江戸時代の「伝通院」には、僧侶養成所の栴檀林があり、澤蔵司なる成績優秀な学僧がいたんだそうだ。
それが、学寮長とか住職だとかの夢枕に立ち、
“そもそも余は・・・稲荷大明神・・・だったんだよ・・・だから祀るべし。"
見たいな事を言って行方をくらましたらしい。
慈眼院公式HP
稲荷神社と言うことで、正面の階段の両サイドには、キツネのレリーフ。
ほとんど、写っていないが、石垣の石材は江戸時代のものと推定されているようだ。
見ての通りの境内と本堂。
(左)本堂のキツネ。
(中)キツネ。
(右)「霊窟 おあな 参道入口」とある。
鳥居の連打を抜けていくと、その「霊窟」がある。
(左)「霊窟」の中のキツネたち。
(右)更に鳥居と祠が続く
このルートの北側、前半のメインスポットは、この伝通院だ。
創建は室町時代、4代将軍「足利義持」の治世とされる。
当時は小さな草庵で「寿経寺」と号していた。(今でもそうなのだが)
それが、徳川家康の生母「於大の方」菩提寺に定められ、その法名「傳通院」の名で呼ばれるようになったんだとか。
これを期に、江戸時代を通して、ステータスもアップし、寺領も拡大、興隆を極めていたようだ。
また、関東十八檀林(浄土宗の僧侶養成所)の一つとしての機能も果たしていた。
ここには、徳川家ゆかりの寺院として「於大の方」を始め徳川一族の墓所があることでも知られている。
伝通院の正面入り口、寺号は「浄土宗 無量山 傳通院 壽経寺」。
(右)向って左側の塀の前にある「処静院跡の石柱」というもの。
伝通院の塔頭寺院として存在していた寺で、ここで新選組メンバーも身を寄せた「浪士隊」が結成されたんだとか。
(左)第二次世界大戦で焼失し、昭和再建の本堂。
(右)やはり、戦火で焼失し、昭和再建の鐘楼堂。しかし、梵鐘は天保年間のものだとか。
(左)「指塚」なるもの。あの指圧の「浪越徳治郎」が建てたものらしい。
(右)左から、勢至菩薩・法蔵地蔵尊・観世音菩薩らしい。
墓地に多数存在する、このような宝筺印塔の多くが、徳川家ゆかりのもの。
本当にいっぱいあるので分かるのは一部だが、とりあえず撮った写真からも、案外判明したので載せてみる。
(左)徳川家康の母「於大の方」の墓。ここでの主役、墓碑銘は当然「傳通院殿」だ。
(右)豊臣秀頼に嫁した徳川秀忠の娘、あの「千姫」の墓。
(左)徳川家光の正室「孝子」の墓。このあたりまでは、案内板がある。
(中)3代将軍徳川家光の次男「亀松」の墓。
(右)6代将軍徳川家宣の3男「大五郎」の墓。
(左)第6代将軍徳川家宣の次男「家千代」の墓。
(中)徳川秀忠の四女で京極忠高の正室、「初姫」の墓。
(右、左から、
11代徳川家斉の娘で、会津藩主「松平容衆」の正室「元姫」の墓。
八代将軍徳川吉宗の二女「芳姫」の墓。
十一代将軍徳川家斉の十五男「久五郎」の墓。
(左)尾張3代目「徳川綱誠」の娘で徳川綱吉の養女だったらしい「喜知姫」の墓。
(中)尾張8代目「徳川宗勝」の娘で、米沢藩の第8代藩主「上杉重定」正室「豊姫」の墓。
(右)甲府宰相「徳川綱重」正室の墓。二条摂関家の娘らしい。
(左)尼崎藩の初代藩主「松平忠喬」の娘で、徳山藩の第5代藩主「毛利広豊」正室の墓。
(中)「八月十八日の政変」で都落ちした“七卿落ち"公卿の一人「澤宣嘉」の墓。
(右)「新選組」の前身「浪士組」を組織したが、策士、策に溺れる的な最期だった。「清川八郎」と妻「阿蓮」の墓。
時代小説の定番「柴田錬三郎」の墓。
左の丸っこいやつの前のプレートに「柴田錬三郎之碑」と書いてある。
剣豪小説のイメージが強いが、個人的には三国志「英雄ここにあり」が印象に残っている。