≪Chapter of Mukougaoka lineup≫
本郷編から→
西教寺→願行寺→西善寺→
正行寺→浄心寺→
大円寺→栄松院→
大林寺→海蔵寺→
瑞泰寺→光源寺→
蓮光寺→養源寺→
徳源寺→常徳寺→
高林寺→東都六地蔵二番目
光源寺の角を左折したところ、だから左側の塀は光源寺のもの。
この細い道を挟んで、左側が向丘二丁目で、右側は千駄木三丁目になる。
少し先に行くと、現れる赤い山門は蓮光寺のものだ。また浄土宗だ。
(左)山門の横にある石碑、旧大垣藩主戸田家、最上徳内、平野金華の墓があるらしい。
(右)その平野金華の墓。“文荘先生の墓"となっている。これは史跡になっていると言っても地味なので、
たまたま、お寺の人に場所を教えて頂かなければ見つからなかったかも知れない。
荻生狙来に学んだ守山藩の貧乏儒学者で、妻の着物を着ていったら(趣味なのではなく貧しさから)
殿様が加増してくれたんだとか・・・そんなエピソードが残る人物らしい。
(左)このレンガの一画が、美濃大垣藩戸田家墓所みたいだ。
他にも、大名家っぽい墓所を見かけたが、大垣藩の支藩の大垣新田藩や大多喜藩松平家あたりがあるらしい。
(右)最上徳内の墓。江戸中期の北方探検家で、西善寺で出てきた近藤重蔵の配下としても蝦夷地に渡っている。
Wikipediaによると、この時は、老中で大垣藩7代藩主の戸田氏教による立案だとある。
大垣藩戸田家とも接点があるんだと思ったが、ここに戸田氏教はいないらしい。
(左)大垣藩の分家、美濃大垣新田藩の墓所。
奧の左側が2代目戸田氏房。並んで右が5代目戸田氏興らしい。あとは良く分からない。
(右)大多喜藩3代藩主松平正温。
本堂の隅っこにる白い象。控え目な牙は、やはりインド象なのだろう。
蓮光寺を後にし、更に先に進むと道の千駄木側にお寺が見えてくる。
臨済宗の養源寺が次の目的地だ。写真は、入り口前で振り返ったところ。
右奥の方に蓮光寺がある。
ここは、春日局の息子で、創建者の小田原藩主稲葉正勝のお寺として知られる。
明暦の大火で、湯島からこの地に引っ越してきたらしいのだが、湯島には春日局が眠る麟祥院がある。
なので、当初、湯島にあったというのも偶然ではないのだろう。
門前の碑を見ると、安井息軒と西村茂樹なる人物の墓が史跡なっているらしい。全く知らないけど・・・
(左)その西村茂樹の墓だ。幕末明治の啓蒙思想家で、福澤諭吉あたりと連んでたようだ。
道徳論を前面に押し出し、学校教育に強い影響を与えた人物だったらしい。
(中)そしてこっちが安井息軒の墓。江戸時代の儒学者で西村茂樹も門弟だったとある。
まあ、その道では有名人なんだろう。
(右)淀藩6代藩主稲葉正弘と、正室の員姫(会津藩松平容貞の娘)の墓。
(左)これが、ここでの主役、小田原藩主稲葉正勝の墓所。
(右)越後国刈羽郡 椎谷藩 堀家の墓所。堀直之以下の歴代藩主とその一族だと思われる。
養源寺を出て、“養源寺参道"とある所を突っ切ると、
またエリアを分ける道にぶつかる。
この道(右)を挟んで、今いる向丘2丁目・千駄木3丁目と、
対岸の本駒込3丁目とに分かれる。
写真は、本郷通り(白山)方面を向いているので、
後方は、不忍通り(千駄木)方面だ。
この後は、本駒込サイドに見える2寺を
ちょこっと覗いてみる。
寺本体については、臨済宗らしって事くらいしかわからないが、案内板によると“日限地蔵"なるものがあるようだ。
元々は近くの「動坂」にあったと書いてあり、その「動坂」は寺前の道を不忍通り(千駄木方面)に下る坂だ。
その途中にある駒込病院のあたりに、目赤不動と一緒にあったものらしいが、目赤不動は駒込編の南谷寺に
引越し、“日限地蔵"はここ徳源寺へと移っていると言うことのようだ。
(右)は“太古の遺跡"とある。これも駒込病院の敷地が「動坂遺跡」の跡地らしいので、その事だと思われる。
良く見ると、コロボックルとかアイヌ人種なんて文字が読めるのだが、こんな所まで南下してないよなあ・・・
境内の石仏群。右側には“目赤不動"の碑らしきものも建っている。
それで、左端の地蔵が“日限地蔵"らしい。別にただの地蔵に見える。当たり前か・・・
おとなりの浄土宗常徳寺に来た。
ここあったのは、“身代り地蔵"。なんか結構ありがちなやつに思えるが。
(右)これのことらしい。
向丘2丁目サイドに戻り、本郷通り方面に歩いていくと高林寺がある。
神田から御茶ノ水と所を変え、例によって明暦の大火で焼け出され、ここに来たらしい。
御茶ノ水時代には、境内に沸いた名水で将軍にお茶を献上したことから“お茶の水"の地名の由来となったという、エピソードがあるお寺だ。
その後、震災と戦災に見舞われ、建物は昭和に再建されたものだが、
元々は徳川綱吉の代に将軍家の祈願所として創建された由緒のある寺院だという。
墓地には、往時の名刹を思わせる雰囲気があり、古そうなのがいっぱい建っている。
(右)岡麓の墓。正岡子規の門人で明治期の歌人らしいが、知らない・・・
(左)この本多家の墓は、徳川家康の三河時代の三奉行で“鬼作左"の通称で知られる本多重次の一族だとある。
墓誌には、初代の「重次」は取手の本願寺に、次代の丸岡藩初代「成重」は福井県の本光寺が墓所とある。
3代目以降が、ここにいるらしいのだが、丸岡藩2代目の「重能」ではないようなので、弟「重看」の家系か?
(右)江戸時代の医師で蘭学者、緒方洪庵の墓。ここでは、これが有名だ。
主催した「適塾」から、福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎などの人材を輩出した事で知られる。
(左)織田家の墓とある。天童藩の初代織田信美以下の織田家か?織田信雄の系譜と言うことか?
(右)伊東家の墓とある。伊東長実を初代とする備中岡田藩のものと思われる。
右側の塔に初代「長実」と2代目「長昌」はいるようだが、後は良く分からなかった。
本郷通りに戻ってきた。本駒込駅付近だ。
今立っているところは向丘2丁目だが、信号を渡ると本駒込に入る。
本駒込の“本"と言うのは、“旧本郷区"の駒込と言う意味らしい。
また、駒込は豊島区だが、本駒込は文京区だったりする。
なんか、本郷編でも駒込編でも、どうでも良いような気がしてきた。
まあ、実際、本郷からそのまま歩いて来てるわけだし、本郷編でいいか・・・
歩道の道標ペイント。
駒込土物店跡は、駒込編で訪れた天栄寺で道路の向こう側に見えている。
目赤不動(南谷寺)も駒込編で訪れた。本郷通りを駒込方面に行くとある。
高林寺は、たった今入ったところ。
大円寺も先ほど行った。駒込編でも訪れている。
だぁ〜〜〜っと道を戻り、
駒込大観音(光源寺)の
角まで戻ってきた。
前方は“大観音通り"
なる商店街だ。
この道を千駄木方面に歩く。
左方は、蓮光寺方面、
後方は、四軒寺町。
脇道にやや唐突な感じで“東都六地蔵二番目"の案内板が立っている。
どうやら専念寺というのがあったらしいのだが戦災で焼失したようだ。
それで、この地蔵が焼け出されて残ってるって事らしい。さっき、瑞泰寺に一番目があった元禄期のシリーズだ。
意外に見た目が小綺麗なので、一瞬レプリカかと思ったが、このシリーズで現存する2体の内の一体であるという。
ただ、西日暮里の浄光寺にある三番目は、江戸時代の物とは言っても、確か再建なので、この道端にあるのが、
事実上唯一残っているオリジナルの個体と言うことになりそうだ。
歩道に目を落とすと、また道標のペイントが。
専念寺とあるのは、いまの地蔵があったところ。
蓮光寺は、最上徳内や大垣藩戸田家の墓所があったところ。
観潮楼跡は、この先みたいなのでちょっと行ってみる。
引き続き、団子坂に向って歩いていくと、「本郷図書館鴎外記念室」の看板がある建物が見えてきた。
でも、リニューアルかなんかで“当分の間休館"みたいな事が書いてある。
側面に回り込むと、森鴎外の旧居跡だという、その観潮楼跡だ。昔は、ここから東京湾が見えたらしい。
今は、この地味に復元されたらしき庭部分が見られるのみ、銀杏とか右端の「三人冗語の石」が当時のものだとか。
(右)道の対面にある舞姫がモチーフらしい彫刻。小説の内容にとらわれることなく自由な発想とイメージなんだとか。
団子坂上の交差点まで来た。
今回は、本郷から向丘へ本駒込を掠めてここまで来た。
この団子坂を下りると不忍通り、不忍通りを渡ると、
谷中の全生庵などがある三崎坂だ。
と言うわけで、この度の終点はここ。
メトロの千駄木駅が最寄りの駅になる。