今回は南池袋から雑司ケ谷へ、さらに護国寺を経て、音羽へと至るコースを歩く。
ルートには、雑司ヶ谷霊園や護国寺があるため著名人の墓所もなど多い。
池袋の繁華街から少し外れた雑司ケ谷一帯は、対照的に静かな雰囲気の寺町、住宅街だ。
江戸時代には、さらに長閑な農村風景が広がり、将軍家の鷹狩り場などもあったようである。
≪Chapter of zousigaya lineup≫
法明寺(鬼子母神)→
金乗院(目白不動)→
大鳥神社→
本納寺→
雑司ヶ谷霊園→
雑司ヶ谷旧宣教師館→
護国寺→
鳩山会館
明治通りの南池袋1丁目の交差点から東通りへと入る。
この辺りは、すでに江戸時代の雑司が谷村だ。
ちなみに池袋の東口や西口辺りが池袋村で、サンシャインは巣鴨村だったようだ。
この道を雑司ケ谷方面に歩き、左手にサンシャインビルが見えて来ると、右手は法明寺の裏手になる。
雑司が谷村にあって中心的な存在であったと思われるのが、日蓮宗法明寺だ。
創建は平安時代の弘仁元年(810年)とされる古刹で、江戸時代には14もの系列寺院を擁していたという。
江戸名所の一つであった雑司ヶ谷鬼子母神も法明寺の施設である。
法明寺参道とあるが、これは墓地の塀だ。
とりあえず、この塀づたいに進んでみる。
塀沿いに歩いてすぐ左手に威光稲荷がある。
鳥居の連打をくぐると社殿が、更に鳥居が続き末社がいくつかある。
墓地の入り口に「法明寺の名墓」なんて案内板がある。
(右)大奥の老女華嶋(随信院)の墓らしい。それが誰なのかは知らない。
(左)「甲陽軍鑑」の作者あるいは編集者として甲州流軍学を広めた小幡景憲一族の墓所。
(右)この小さな墓には“楠正成公息女之墓”とある。案内板によると“姫塚”の別名があるらしい。
一見、昔のものに見える法明寺の山門と本堂だが、関東大震災で被災しており昭和の再建であるという。
法明寺の参道には、現在も当時の系列寺院がいくつか残っている。
(左)真乗院。
(右)観静院。雑司ケ谷七福神の弁財天でまわった寺院だ。
法明寺の参道を抜けると鬼子母神の裏手に出る。住所は南池袋から雑司ケ谷に移る。
ここに江戸時代から、鬼子母神の参拝土産であったという「すすきみみずく」店があった。
しかし、現在は、職人さんがいなくなり、店はなくなっている。
江戸後期には、将軍も訪れるなど繁盛していたという鬼子母神であるが、普段はとても静かな場所だ。
なんでも、永禄4年(1561)に目白台の清土で発掘した鬼子母神像を天正6年(1576)から祀っているという。
この鬼子母神堂は、お寺だか、神社だかよくわからない場所だが、本殿とあるので、やはり神社か・・・
(左)本殿は、1664年(寛文4年)建立の東京都指定有形文化財だとか。
(右)江戸時代の参拝客も食べたという「おせん団子」。
(左)江戸時代から存在するという駄菓子屋の上川口屋。この境内での風物詩だ。
(右)武芳稲荷堂の絵馬。
(左)樹齢700年だというご神木のイチョウ。都の天然記念物だとか。
(中)鬼子母神像。
(右)仁王像。
鬼子母神参道かろ路地を見ると民家の門柱に「並木ハウス」の表記がある。
なんでも、手塚治虫が一時期2階に居住しリボンの騎士などの連載を書いていた場所なのだとか。
現在も、アパートとして使用されているらしい。
ケヤキ並木で知られる鬼子母神参道を抜ける。
江戸時代には、門前町として賑わっていたはずであるが、今は静かな住宅街だ。
当時の地図には、「雑司が谷町 自証院領」あるのだ、該当の寺院は見当たらない。
鬼子母神の社殿を寄進したという広島藩主浅野光晟の正室で加賀藩主前田利常公の3女、自昌院殿(満姫)のことか?
あるいは、他所の寺の飛び地か?
(左)鬼子母神堂参道入口。
(右)都電荒川線の鬼子母神前停留所。
鬼子母神参道から続く商店街を歩き、目白通りを渡ると住所は雑司ケ谷から高田に、江戸時の雑司が谷村から下高田村へとエリアが移る。
電柱には「目白不動 金乗院」と見える。この坂を下るとあるらしい。